幸福とエゴと、罪滅ぼしと。
先日、映画「そして、バトンは渡された」を観ました。
まだ付き合ってもなさそうなカップルがふたりで号泣してしまい、映画が終わった後に「泣いちゃいました、すいません」とか初々しいやりとりをしていたのが微笑ましかったけど、あんまり人のことも言えず、僕も終盤でめちゃくちゃ泣いてしまいました。
感動と共感とやるせなさと、いろんな感情に包まれた映画でした。
(以下ネタバレし放題なので、注意してください。)
人はみな、生きていく上で自分の幸せを追い求める権利を持っていると思います。ここで言う「自分の幸せを追い求める権利」と言うのは、「自分の生きたいように生きる権利」くらいのものと捉えてください。「各自が自分の生きたいように生きることは、他人によって制限できるものではない」とでも言いましょうか。
しかし、この映画を通して繰り返し描かれるのは、「自分の幸せを追い求めた結果、他人の幸せを制限してしまう」人の姿です。オリジナルのチョコレートが作りたくて、家族に相談もせずにブラジル行きを決めてしまう水戸さん、成績がいい優子ちゃんをいい大学に行かせたい担任の先生、自分が憧れていたコンクールに息子を出演させようと必死になる早瀬くんのお母さん、子供が産めない体であることがわかっていながら、やっぱり子供を育てたかった梨花さん。追い求めた幸せが叶ったかどうかはそれぞれ異なるけれど、幸せを追求するということは、ある種周りの人に自分のエゴを押し付けることなんですね。フラフラと生きる早瀬くんに対して彼女さんは別れを告げることができたし、チーズとシャンパンを一緒に楽しませてくれない家政婦さんに嫌気がさして梨花さんは泉ヶ原さんの家を出るわけだけど、自分の意志では遠ざけられない人間関係が少なからず存在することも、また事実です。
そして、周りの人に自分のエゴを押し付けることで自分の幸せを追い求めた人が、周りの人に贖罪する姿も描かれます。ブラジルに行った水戸さんはみーたんに何度も何度も手紙を送り、死期が迫った梨花さんは優子ちゃんに対し、自分は最悪の母親だったと打ち明けます。幸せを追い求めることは自分のエゴを周囲に押し付けることであり、さらにそれは罪滅ぼしまでがセットであるみたいです。
もちろん、幸せを追い求めることはエゴの押し付けなのだから、その幸せは諦めるべきだ、そんなことを言うつもりは全くありません。梨花さんには子供を育てる権利があるし、たとえ自分の手で子供が産めなくても、子供を育てる経験ができたのは素晴らしいことだと思います。成果が出ているから正義だとか言うつもりもないのですが、現に優子ちゃんは梨花さんの教えにとても影響を受けて、たくさんの人に愛される人に育ちました。
幸せの追求と罪滅ぼしはセットかもしれないけど、でも逆に、罪滅ぼしをしてまで自分の幸せを追い求めようとする姿には勇気をもらえるような気もします。どうしても周りの顔色を伺ってしまい、自分の幸せを追求しきれない人にとっては、罪滅ぼしをする覚悟で自分の幸せを追い求めることも必要なのかもしれません。
ただ、その際に必要なのは、自分の幸せを追い求めつつも、決して周りの人を蔑ろにしない姿勢なんだと思います。周りの人の幸せのために自分の幸せがあり、常に周囲のことを考える、そういう姿勢こそが、結局は自分を幸せにするんだろうなと思いました。